8-1翠嵐会に託される

平成12年5月13日の翠嵐会総会でふたば会の提案に基づき、「田奈慰霊碑の翠嵐会による維持・保全の件」が承認され、9月30日には鈴木宏司第20代校長立会いのもと、ふたば会から高野征宣第8代会長に「保全基金」60万円と翠嵐会の運営費にと端数の金額の寄附金が受け渡されました。つづく11月20日には翠嵐会正副会長・校長先生・翠嵐会校内幹事およびふたば会のメンバーが慰霊碑を参拝しました。翠嵐会が「長男」として「メンテ」と「祭祀」そして「伝承」を受け継ぐこととなりました。

ちょうどこの頃、田奈慰霊碑周辺のこどもの国通り(県道・主要地方道139号真光寺長津田線)沿線では、道路整備・拡幅の話が語られていたとのことで、もし拡幅となった場合慰霊碑の移設は避けられず、移設先の確保など、ふたば会では対応しきれないという結論に達し、翠嵐会に託すことに決まったそうです。

そのふたば会内部で無償で託すというのはいかがなものかという議論になり、殉難者6名にちなんで60万円を会員から募り、いわば「永代供養料」として「保全基金」を翠嵐会に信託することとなったそうです。



8-2風化を浮き彫りにしたタウン誌写真集誤報事件

平成14年6月20日、横浜市北西部、川崎市中部以北、東京都城南地域を対象エリアに地域情報を発信しているタウン誌が、横浜市青葉区役所の協力も得て、青葉区各地の20世紀の記録を残すための写真集を出版しました。これは横浜市の該当エリアの各区それぞれについて順次出版したシリーズものの青葉区編で、青葉区内の地域の人々から所蔵の写真を提供してもらい、地域毎・テーマ毎に編集がなされている。その中でこどもの国通りの昔と今を対比させたページの中に移設前(昭和42年4月)の田奈部隊慰霊碑の写真が掲載されていて、キャプションで殉難した6人について、当地でキャンプ中に水難事故で溺死との説明がなされています。

旧成合村(昭和14年の横浜市編入時は都筑郡中里村大字成合)の旧家のご出身で郷土史家として「我が村と氏の源流を探る」(文芸社、2006)を著し、青葉区生涯学習「郷土史学級」の講師も務めていた綾部宏氏(高1回〈=中28回の2年後輩にあたる〉)は7月6日に抗議文を作成して事故当時の真相資料なども添えて出版社に適切な措置を講ずるよう申し入れました。

交渉の結果、出版社側は取材過程での誤りを認め、母校校長および翠嵐会会長宛の謝罪文を持っての陳謝、正誤表の発行を含む合意文書の調印がなされました。8月9日には綾部氏は母校を訪問し、藤田英征校長と安斉講一教頭に報告されました。(平成14年12月発行・翠嵐会報第16号「奈良川の熱い盆」副会長〈当時〉栗原義昭〈高10回〉を参照)



8-3ふたば会の解散

前述の誤報事件は、その写真を提供した地域の旧家の間(事故当時は救護等に尽力し、慰霊碑のみならず、田奈部隊・弾薬庫の昭和30年代の様子の貴重な写真を同写真集に多数提供)ですら世代交代が進み、伝承されず事故が急速に風化しつつあることを示唆していました。

慰霊祭を行うだけではなく、長らく毎年の命日には慰霊碑を参拝し、さらに旧制神奈川高女の卒業生のみなさん(29期・30期)と二人三脚で事故のことだけでなく勤労学徒動員や戦争のことなどについでも語り継いできたふたば会は、高齢のため会としての活動を終了することとなりました。平成17年の秋にふたば会の最終総会を開催し、翠嵐会と共同で慰霊碑に碑文および事故経過および建立にこめた願いなどの説明案内文を記したパネルを設置することとし、会の活動残金をこれに充てることを決めました。


案内板の設置工事および地元・土志田建設株式会社様のご芳志により行われた慰霊碑周辺の補修工事は、平成18年9月11日に完成し、11月30日、ふたば会の最後の公式行事として案内文の掲示披露が慰霊碑の前で執り行われました。


8-4田奈の森、白百合の丘

中28回と同時期に学徒勤労動員で田奈部隊で弾薬の充填などの作業に従事された、旧制神奈川高女卒業生である酒井智恵子氏が部隊での生活や作業など当時のことを手記にまとめ、平成7年4月20日、「田奈の森-学徒勤労動員の記」(近代文芸社)として刊行されました。_この売り上げを使って、こどもの国の正門から入って右側の「白百合の丘」(※注)と呼ばれる高台に旧制神奈川高女の卒業生らによって「平和の碑」が建立されました。碑の表面には「平和を祈る」とだけ記され、裏面には「戦争のない世界を願って」と題した建立の由来の文が記されています。

建立にあたり、こどもの国との調整や折衝について鈴木素一氏が尽力し、資材調達や施工などは松本七郎(松本石材店)が担当しました。慰霊行事など、ふたば会のみなさんと同時期に動員された旧制神奈川高女のみなさんは、これまで二人三脚で活動してきました。

(※注)神奈川高女の生徒達の食堂(休憩所)が建っていた丘、当時この土地には白百合が咲き誇っており、この丘にもたくさん生えていたことから女学生達は「白百合の丘」と呼んだ。また連日働きづめの彼女らを慰めようと、部隊の兵士のひとりが毎日白百合を摘めるだけ摘んで帰り際に1本ずつプレゼントした。その兵士を彼女らは「白百合の君」と呼んで憧れのまなざしを向けた。


8-5 学徒勤労動員の記録

また、平成11年7月、「神奈川の学徒勤労動員を記録する会」により「学徒勤労動員の記録-戦争中の少年少女たち」(高文研)が刊行されました。神奈川県内の旧制中学・高等女学校など中等学校の生徒や県外の中等学校の生徒の県内の軍需産業への動員の状況が手記や集計データ、制度史などで構成された一冊となっています。

その中で鈴木素一氏による田奈部隊遭難について記した「六つのみたまに」、横浜駅西口にあった佐倉鋼鉄に動員中に5月29日の横浜大空襲に遭い、戦災孤児になっても動員されたことなどを記した「横浜大空襲の中で親兄弟を失い」(半田學氏〈中29前〉)などの手記が掲載されています。

8-5ミュージカル「こどもの国物語―光と闇が出会うとき」

平成17(2005)年1月22日(土)15:00〜、23日(日)10:30〜/14:30〜、青葉区公会堂で「2004 横浜市 青葉区 小中高生ミュージカル こどもの国物語-闇と光が出会うとき-」が上演されました。

これは地域の教員・青少年指導員らが2001年度に発足し、年1回、青葉区内の小・中・高生を中心とした「横浜市青葉区小中学生ミュージカル」が横浜を題材としたミュージカルを上演しているものでこの年初めて戦争を採りあげ田奈部隊の学徒勤労動員を題材にしたミュージカルを行いました。ストーリーは創作ですが、鈴木素一氏が時代考証を担当されました。

このミュージカルは2011年1月29日、30日には「こどもの国物語2010」としてリニューアル再演されました。



《むすびにかえて》

笠のぎ稲荷神社を継いだ小野和伸氏(高33回)によると、晩年まで亡父・和輝氏は事故のことを寂しげに時折想い返していたといいます。また、鈴木素一氏によると戦後50年の頃までは語りがたい風潮があり、ふたば会のみなさんも語ることはなかったそうです。そののち往時の様子を知りたいという声がかかるようになり、「昭和の語り部」として各所を回るようになったといいます。

こうした先人達の想いを受け継ぎ、共有し、貴重な資料とともに次代に残していくことが、翠嵐会に課せられた使命ではないかと思われます。〈了〉

 

第7話 六つのみたまに

 

翠嵐会は今日の平和が先輩方の尊い犠牲によってもたらされたこと、そしてふたば会の皆様が70年語り継いで来た事実や平和への思いを将来の後輩たちにも引き継いでいくためには何ができるかを考え、田奈部隊殉難者慰霊式を開催しました。同時にこの場所に事故殉難者の「田奈部隊学徒勤労動員生徒殉難者追悼モニュメント」を建立いたしました。

式典には、翠嵐高校職員、生徒代表、中学第28回卒業の「ふたば会」の皆様、翠嵐会役員・一般会員、そして旧神奈川高等女学校(現神奈川学園)の方が参加しました。


田奈部隊殉難者慰霊式のご報告