重大な事故があっても関係なく戦争は続きます。この弾薬工場は休むことなく操業が続けられました。田奈部隊は丘陵地帯の谷戸の地形を活かして、高射砲の砲弾などに弾薬を充填して完成させ、戦場に出荷することをその任務とする旧陸軍の兵器廠でした。このころの学校は、上級生には授業がほとんど行われることはなく、生徒達は大人が戦場に送られて不足する労働力を埋めるべく、昭和電工や佐倉鋼鉄、浅野カーリットといった近隣の軍需工場などに勤労動員されました。それは終戦の詔勅(8月15日の玉音放送)まで続けられました。

この年の4年生(中28回)は5月5日から1カ月の予定で東部補給廠田奈部隊(部隊長 黒川海蔵少佐)に動員が決まり、全寮制で配属されました。予定の1カ月が経過したちょうどその日(6月5日)の閣議決定で通年動員となり、そのまま6月6日より田奈部隊への勤労動員が継続されました。田奈部隊には2つの寮があり、横浜二中の生徒は北寮と南寮に分かれて寄宿しました。一学年全体で1カ所の軍需工場に配属された例は本校では中28回のこの例が唯一だったそうです。


旧制中学とはそもそも、卒業後上級学校に進学する生徒が通うところでした。そのため生徒も父兄も受験が一大関心事だったわけです。さらにこの学年から戦時中の特別措置で中学校は年限が5年から4年に短縮されましたから、4年生は全員受験生となったのです。戦時中で授業がなくても、軍需工場に働きに行っても、それは変わりませんでした。


受験生であるということもあり、通年動員が決まった際には説明のための父兄会が開かれ(6月24日)、延灯室も設けられ、南寮では夜間授業が行われることとなりましたが、いつしか行われなくなり、生徒の間から全寮制から通勤制に変更するよう声が上がりだしました。


当時の田奈部隊では、大人の工員に混ざって勤労学徒動員の横浜二中の生徒(男子)や女子挺身隊、そして神奈川高等女学校(現・神奈川学園)の生徒が生産に従事していましたが、次第に横浜二中の生徒達は主力の働き手として存在が大きくなっていました。そのようなこともあり、部隊もその要求を受け入れ、自宅が遠方で通勤ができない生徒は引き続き寄宿する(*注2)ほかは、通勤制となりました(9月11日より)。そのため、長津田駅から荷物列車のような車両で部隊に通勤することになりました。

(*注2)

 全寮制から通勤制になる際に、寄宿組は全員北寮に入り、南寮は明け渡した。


 

 

 

 

 

 

 


 




第2話 田奈部隊遭難
第4話 事故後の田奈部隊