戦局の悪化もあって通勤途上の痛ましい事故の後も田奈部隊ではフル操業が続き、引き続き4年生は弾薬生産に従事していました。そんな中の翌昭和20年2月7日正午前、部隊の中心部である西谷の貨物引込線プラットホームで貨車への積載作業中の棒地雷(*注3)が大爆発を起こし、軍属の作業員5、6名(*注4)と馬の体がバラバラに吹き飛ぶ事故が起こり、昼食当番のため付近を通行中だった神奈 川高等女学校の生徒が巻き込まれて片足を切断する大怪我になりました。また、2月17日には田奈部隊が連合国軍機の機銃掃射に遭いました。
3月29日、横浜二中では第27回卒業式と第28回卒業式が中庭で挙行されました。戦争遂行という国策と戦局の悪化のために、昭和15年に入学した5年生と昭和16年に入学した4年生が同時に卒業せざるを得ないこととなりました。大正8年の第1回卒業式から卒業生は本館の正面玄関前で集合写真を撮影することになっていて、その写真帖は現存していますが、この日撮影された卒業写真は5月29日の横浜大空襲で写真館もろとも灰になり、現存していません。
卒業後も進学先の上級学校に入学するまでは、引き続き動員先の工場で生産に従事することとなりました。進学した先でも勤労動員が待っていますし、昭和18年からは兵役年齢の引き下げや学生の兵役猶予がなくなり、学徒出陣が待っていました。本土決戦が迫る中、戦場となった沖縄では学徒隊が組織され、同世代の旧制中学や高等女学校の生徒達が後方任務にせよ戦闘に参加することを余儀なくされました。
(*注3)
棒地雷とは、対戦車肉薄戦で使用する制圧機材であり、事実上の特攻兵器である。田奈部隊では製造されておらず、全国の他の兵器廠で製造されたものを貯蔵して、部隊から前線に出荷していた。
(*注4)
丸通(現・日本通運)所属の積込作業員。部隊から出荷する弾薬は、西谷、東谷のプラットホームで貨車に積載し、貨物引込線から省線横浜線経由で瑞穂埠頭(桟橋)まで鉄道輸送され、そこから輸送船で戦地に送られた。省線長津田駅構内から田奈部隊に延びる貨物引込線は、現在のこどもの国線恩田駅・こどもの国駅間の奈良川を渡る橋梁の先で分岐し、現在のこどもの国正面広場(西谷プラットホーム)、同牧場口駐車場(東谷プラットホーム)まで延びていた。同様に横浜線は東神奈川駅手前から海側に分岐して京浜急行本線をくぐり瑞穂埠頭まで延びる貨物支線が存在した。
学校報国団とは(学徒勤労動員の単位への変遷)
時期 | 戦況・政策・本校 |
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昭和13年3月 |
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昭和13年4月頃 |
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同年7月 |
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昭和15年度 |
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昭和16年 |
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同年8月 |
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昭和16年12月8日 |
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昭和17年8月 |
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昭和18年6月 |
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同年10月 |
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昭和19年3月7日 |
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同年12月 |
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昭和20年3月18日 |
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同年5月22日 |
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