終戦後、旧日本軍最大規模の弾薬製造貯蔵施設であった通称陸軍東京兵器補給廠田奈部隊(・同填薬所)(*注5)は連合国軍に接収され、講和後も米軍田奈弾薬庫(田奈キャンプ)として同様の軍事施設のまま残りました。奈良川のほとりの事故現場には、田奈部隊関係者の手によって1本の木製標柱が建てられ、正面には「県立二中生遭難の地」と、裏面には6名の氏名が書かれていましたが、次第に朽ち果てていきました。

卒業して8年、二十代半ばの社会人となった中学第28回卒業生は、自らの手で朽ち果てた標柱に替えてその場所に慰霊碑を建立しました。実家の石材店・松本石材店を継いだ松本七郎氏は資材を調達し、施工を行いました。神職として実家の神社を継いだ卒業生は、慰霊碑に刻む墓碑銘と揮毫を大学の恩師に頼みました。

昭和28年11月29日(30日とする文献もあり)、現地で慰霊碑の除幕式が、終了後近所の横浜市立田奈小学校にて慰霊祭が、笠䅣稲荷神社を継いだ、小野和輝氏を斎主に執り行われました。来賓としてご遺族、佐田稔校長、二宮龍雄第4代校長、嶋村力県会議長(中2回)などが参列したほか、翠嵐会関係者も多数参列しました。石碑の表には小野氏の恩師である國學院大學教授の武田祐吉博士(旧職員・国語の武田友宏先生のご尊父)の起草・揮毫による墓碑銘(鎮魂歌)が刻まれ、裏には小野和輝氏起草の碑文が刻まれています。


慰霊碑

横浜第二中学校生徒の遭難をいたみて
  六つのみたま
  ここにしづまる
  田奈の川花もふりそそげ
  雪もみだれよ

   國學院大學教授 武田 祐吉(起草・揮毫ともに武田博士による)

※昭和42年3月10日付翠嵐会報第19号(ブランケット版)には「武田博士唯一の歌碑である」との記述が見られる。

 


同裏面の碑文

昭和十九年のかの戦のさ中に、田奈部隊へ
動員の吾が同窓勤労に赴く朝、はからざりき
この川渡りに自動車覆りて、束の間に若き
六人の生命を奪ふ。九度めぐり来し想い出
悲しきこの日、昔の友がら、今泉正三・漆原光一・
辻義雄・戸羽盛良・西谷基一・山口渡を悼みて
この碑を建つ。
 昭和二十八年十一月三十日
  横浜第二中学校二十八期生一同
 (原文 小野和輝 起草)


(*注5)防衛庁戦史室(当時)でふたば会が資料を調査したところによると、部隊の正式名称は「東部補給廠第〇〇部隊」と数字で表示され、数字が不明で特定できなかった模様。

一方「創立四十周年記念文集附翠嵐会会員名簿」の70ページ「アルバイト手記-風太郎時代- 坂尾英矩(高2回)」には「第二次世界大戦中漠然と日本の必勝を信じて戦ってきた私が、終戦の報を聞いたのは陸軍兵器補給『臣』二九六二二田奈部隊でした。」という記述が見られる。




 

 

 

 



 



⇒ 第4話 事故後の田奈部隊
 第6話 總持寺合同法要