川口恒幸氏(中21回)

中学21回卒業の川口恒幸氏から、ハーモニカバンドの終焉についてのお話をして頂きました。

~平成23年12月発行の翠嵐会報より~


各地でハーモニカサークルが花盛りである。メンバーは女性の方がはるかに多い。昔はハーモニカは男性の楽器だった。うたた今昔の感にたえない。

私が中学生になった時、学校は創立二十周年だった。 一週間ばかり授業を半日にして、各種の行事の準備が行われた。 生徒の作品の展示、体育大会、ジオラマ、剣道野外紅白戦、そして圧巻は会場を校外への持出しての音楽会だった。 独唱、合唱、ピアノ、弦楽器、それにハーモニカバンドの演奏である。 十五、六名位であるが、第一、第二ハーモニカ、バリトン、コントラバス、ダブルバス、打楽器と当時としてはなかなか凝った編成であった。 これを聴いて私はすっかり魅せられた。 フエストが終わって早速入部させてもらった。 第二ハーモニカを担当させられた。 年に一回校内の発表会があるが、先輩の学校の同窓会に招かれることもあった。 毎週土曜日が練習日である。

ところで中学生のバンドではレパートリーはあまり多くない。 校歌、応援歌、行進曲類、ダニューブ河のさざなみ、スケーターワルツ、ハワイ民謡、フオスターなどの通俗ハーモニカ曲である。 せいぜい二十曲位を毎年組み合わせてコンサートのプロを作るのである。 年々似たような曲を吹奏するのは部員にとって物足りない思いであった。 そうこうしているうちに私は遂に五年生となり、部をやめたり、四年生で軍関係の学校へ入校したもののため、大した技巧もないのにバンドマスターでコンダクターとなってしまった。 知っている曲を各パートに分けて編曲するようなことは到底できるわざではない。

当時の音楽の教諭石野先生とは授業関係のない間柄になってはいたが、相談に行った。 「編成は良くできているが、知っている曲ばかりで物足りないので何かうまい知恵はありませんか」、先生は暫く考えて「家のすぐそばにYバンドの指揮者がいる。 W氏を訪ねてみなさい」と言い名刺に裏書きをしてくれた。

Y楽器店は横浜市中区の現在の関内ホール近くにある大きな有名な楽器店だった。 宣伝のためセミプロハーモニカバンドを持っており、成人ばかりの男性グループだった。 練習日に訪ねてみると十五人位が練習していた。 軍に応召されたり、徴用されたり団員が減るばかりで団員不足に悩んでいるとのことだった。 店の二階が練習場となっているが、周囲の棚はレコードと譜面で一杯だった。 どれを自由に使ってもよいが、Yバンドに入ってもらいたいと要望された。 私のために二,三曲吹奏してくれた。
さすがにセミプロだけあって我々とは全然練度が異なりはるかに上級の存在だった。 いろいろと漁って二種類の各パートがよく書いてあるのを借りた。 「アメリカンパトロール」と「美しき碧きドナウ」である。 前者はいろいろの民謡を組み合わせた軽快なものであり、後者はなかなかの難曲だったが猛練習を重ねた。
石野先生も暇を見ては指導をしてくれた。 この二曲を従来のと組み合わせてプロを作り、秋の発表会では大好評を得た。 「今年のハーモニカ部は大分違うぞ」との声に団員一同大喜びだった。 私の行き方は第一ハーモニカは人数を出来るだけ絞り、中低音部を多くしたが、ソロが楽しめないので部員に余り歓迎されなかった。
また指揮のゼスチャーはYバンドのそれを真似たが、ややオーバーな感じだった。 かくして中学校を卒業しYバンドに正式に入った。 アルトハーモニカを持たされたが、相棒は三十歳半ばの人だった。 練習はなかなか厳しく、個性豊か技量も相当な人ばかりだった。
譜面は五線譜でひどく辛かった。 各パートが二人か三人でミスをするとすぐわかり、中学生の時とはえらい違いだった。 時々発表会があるが、ブレザーは縁がブルーで白地、赤い蝶タイ、スラックスは紺の制服を着用した。 左胸のエンブレムはYで、バックの壁にはYバンドのペナントが飾られた。 私の最初に取っ付いた曲はドボルの「新世界」で何度も自信を失いかけた。 毎月のようにどこかで頼まれ横浜を起点として県央の方へも足を伸ばした。 曲も相当高級なものだったが、時節柄 一.二曲は軍歌を入れないわけにはいかなかった。

すでに日中戦争は始まっていたが、太平洋戦争が近付いていた。 団員も少なくなり、バンドの維持も困難となり、最後の公演として各所を回り最後の地を横須賀とした。 終末を飾る企画として名は忘れたが「和製テンプル」の愛称の米国の少女をプロに入れた。
日本人の中年女性が面倒を見ていたが、コスチュームも踊りも日本人離れをした相当なものだった。 日時、会場を定めチラシやポスターを大分出した。反英米思想の烈しくなろうとする中でのしかも軍港での公演だった。 二回ばかり合同練習もし、当日になった。チケットも意外に完売だった。
いよいよ当日最後の打ち合わせも終わり、あと三時間位しかない時、警察署より公演に待ったがかかった。 マネージャーが青くなり皆にそのことを告げた。女の子の国籍が問題らしい。 今更中止は出来ない、どうしよう・・・・・・。
その時、偶然にも私の頭に親戚でまた先輩のことがひらめいた。五,六歳年上だが海軍士官で逗子に居住していた。

彼は鎮守府勤務で時々横須賀の街に巡察に出ることがあると聞いていた。 自宅へも何回か遊びに行ったことがある。 幸い休日なので車を飛ばして家を訪ね相談したところ、警察署幹部とも旧知の間柄だった。 早速協議したところ、日本国籍の混血児ということにして許可された。
お陰で定刻に公演の幕はあがった。事情が何となくわかった彼女は必死で踊った。 また我々も力の限り精一杯の吹奏もした。米国の民謡に合わせて見事な素晴らしい、また楽しい公演だった。 もう二度とはないであろう出来事に万雷の拍手が湧きフィナーレとなった。 制服の水兵も大勢で客席で楽しんでいた・・・・・。
その翌年の末、太平洋戦争が始まり、バンドも解散せざるを得なくなった。 代わってブラスバンドが全盛となった。 彼女は移民交換船で間もなく離日した。 私も進学した横浜高工(現横浜国大)を繰り上げ卒業で航空隊に入隊し、ハーモニカバンドどころではない、生命の保証もない暗黒の世界に叩きこまれたのである・・・・・。

このステージ再び演ずることあらじと 明るき裡にも悲愴の気充つ