瀧澤校長に想う

横浜翠嵐高等学校17期  内 田  友 昭

瀧澤又市初代校長 (1925年頃)

今手元に表題「美なりや翠嵐」なる小冊子がある。平成九年に初版が発行された、わずか16ページのA5版印刷物である。編集委員のあとがきには第18代松井 薫子校長先生のお勧めにより、「大平凡主義」及び本校の歴史を在校生の皆さんに理解してもらうため、とある。翠嵐会の役員でもない私の手元にどうしてこの 小冊子を届けて頂いたかは全く記憶にない。

在学中も折にふれ耳にした「大平凡主義」をもう少し詳しく知りたいとの願望が卒業してから大分経ってから湧いてきたが調べるチャンスも無く、時は経過した。 26年ぶりに横浜に帰り、平成17年以来懐かしい翠嵐会の年次総会に出席し、100周年資料収集委員会の作業をお手伝いすることになり、この願望が再燃 した。

この冊子の中には瀧澤校長が福井県立武生中学校から赴任されたことが記してあった。ここから私の調査が始まることになる。


福井県立武生中学時代

平成19年3月に福井県立武生高等学校宛に問い合わせをしたところ庶務部長堀直樹氏が「武生高校70年史」から瀧澤校長に関する記述を取りまとめお送り下さった。

  •  明治43年(1910)10月27日、第5代武生中学校長として滝沢又市が任命された。滝沢校長は明治元年長野県小縣郡に生まれ、早稲田専門学校から東 京帝国大学文科を卒業、新潟県尋常中学校、東京府尋常中学校、東京府立第三中学校教諭を経て、明治38年福井県立大野中学校初代校長となりて約5年半の 後、本校に赴任したのである。
  • 大正2年5月15日丹生郡本保、柳原間の長距離、団体徒歩競技が行われた。このマラソンは、滝沢又市校長時代になってから行われるようになったもので、春のマラソンの距離は5マイル、秋は10マイルであった。
  • 同25日全校生徒杣山城址に行軍した。滝沢校長も先頭に立って登山、歴史学者でもあった同校長は、頂上で杣山城址にまつわる歴史を語った。
  • 大正2年9月、武生大火が起きた。学校ではちょうど授業を終えて生徒は帰宅の途中であった。学校では寄宿舎生に命じて、それぞれの荷物をまとめさせ、一方 校長は陛下の御真影と校旗を大八車に積んで、校門の所に待機し、滝沢校長は武中の帽子にあごひもをつけ、他の先生方と御真影の警護にあたった。
  • 明治43年10月、本校に着任した滝沢又市校長は、数々の内外の功績を残して、在任3年5ヶ月で大正3年1月7日神奈川県立横浜第二中学校へ転任することになった。
     温厚、篤実、学者肌の同校長は華々しいものこそなかったが、誠実な人柄と豊かな学識で、職員生徒より慕われた。同校長は「英文時報」、「数理課題」を時 々生徒控え室に掲示して、学習意欲の向上をはかった。また成績の悪い生徒には放課後特別課外の実施、成績優秀者についても進学のための課外授業を実施し た。
  • 滝沢校長の人柄、指導を偲ばせる逸話として大正3年度卒業生三田村茂は次の様なことを記している。
    「同 校長の赴任により朝礼が実施され、時折校長が訓辞をされることがあった。ある時、風呂敷包みを手に持って壇上に上られた。中からは「カンゼヨリ」で作った バレーボール位の球が出てきた。何だろうと見ていると、曰く「郵送されてきた新聞の帯封の用紙を、昼食の後裂いてコヨリにして毎日続けたら、四年間にこん なに大きな玉になった。勉強するのもかくの如しで、毎日少しずつでも継続して、努力することが大切だ」と教訓を述べられた。」
出生から東京帝國大学卒業まで

話 は前後するがこの後国会図書館の研究吏により瀧澤校長の遺稿集「曲南遺稿」の紹介を頂く。巻末に年表が掲載されているが、これに拠れば明治元年9月7日長 野県小縣郡長瀬村3446の農家に次男として出生したとある。誕生日は明治改元の前日である。大岡郷村誌(角川日本地名大辞典)には長瀬村の人口は文久年 間に戸数六とあるから依田川の右岸崖上にある誠に小さな集落であったようだ。実父の元之助は又一が10歳の時に享年48歳で逝去した。明治15年5月に村 立大同小学校を卒業、県より漢史一斑を賞与されるとある。同16年6月には下之郷小学校授業生拝命とあるので小学校を入りなおしたのであろう。同17年1 月には長野尋常中学校上田支校二年前期編入とある。明治19年の小学校令以降は義務教育である尋常4年と高等4年と区別されることになるがそれ以前に8年 の就学があったのだろうか?上田支校は文化8年創立の旧上田藩校で廃藩置県後は旧幕臣溝口太右衛門の嫡男篤太郎が教諭に就任し、明治41年に和田尋常高 等小学校校長として転出するまでここで教鞭をとっていたので瀧澤少年も同教諭の教えを乞うたのであろう。明治19年7月に至り長野県下の4中学が合併し長 野尋常中学校(松本)としてスタートする。翌12月学力操業優等賞を授与され同校を卒業する。

この頃の記述はほとんどないが後年七十才頃の回想で次のように述べている。

昭和9年には墳墓の地である長瀬村に帰郷が叶い、少年期を過ごした片山の金比羅神社に参詣した。長瀬村からは浅間山・烏帽子岳が一望できる。ここで明治16年4月に奉納した額に遭遇し、自らの二句を発見し吃驚する。
  獨り来て見ても賑はし八重櫻 壽保
  秋風に吹かる々蚊帳の釣手哉

この頃既に2・30歳以上年上の依山、上原安太郎に師事している。

明治21年4月 (正確には4月2日東京に向け出発する。)
4月2日の日記「月曜日 晴天 矯風会員に送られて大屋村に至る 茲に分れて車に乗り小諸に於て晝飯を食し追分に至り止宿す」
東京に遊学し、東京英語学校(明治18年創立同25年消滅。東京大学予備門、現教育学部入学志望者を対象に教育を実施した専門学校)に入学する。
同21年9月 東京早稲田専門学校英語科上級に編入
同22年6月 帝大文化史学撰科に入学
同25年3月27日

上田支校の恩師今先生を肺患にて失う。上田郷友会月報(第66号)に悲嘆にくれた様子を綴っている。この4年間に東海道鉄道に 乗ったのは前後3回あった。第一は友人山極勝三郎氏独乙国に留学する際横濱に見送りに行った時、第二は客冬11月先輩・友人と大山詣でをした時、そして今 回3月20日に大磯に師を見舞う。
いつもならうれしく見える八景園、品川沖の景色から富士の眺めに至るまで全く楽しむことはできなかった。
数日間師の実家に泊まり、26日夕刻まで看病し、友人と帰路に着く。「言葉許りは再会を契れ度も、心は裂くる一世の別れ、又来よと笑いを含める顔みれば涙 は座ろ湧き出でて袖重く、思い切りて立てし障子が、遂に明暗の界とはなれり・・・・」との思いを胸に新橋で下車する。翌27日午前1時、28年の生涯 を閉じる。父親を亡くしたのはわずか11歳(数え年)で涙も見せなかったがこの時は涙の泉堰を止め兼ねて悲嘆愁憺の淵に沈む。

同25年7月 帝大史学科卒業
新潟県立新潟中学校時代

同校にも瀧澤氏を照会したが同窓会事務局からは個人情報保護法遵守との理由で在職中の情報は提供できないとの回答があった。以下は「曲南遺稿」から引用。

同25年8月新潟県立新潟中学校教諭拝命。明治25年創立、現新潟高等学校。同25年12月歴史地理英語教育倫理科につき中等教員免許状が下賜される。同30年1月17日実母八重子死去、享年58才

東京府立第一中学校時代

明治34年4月1日 東京府立第一中学校に赴任

修身英語歴史科を担当する。

4月中旬、東京都立日比谷高校に資料提供を求めたところ同資料館石川英雄様から職員録が送られてきた。「昭和5年東京府立第一中学校一覧」にある旧職員のページをコピーして下さった。職員の区分では教諭、助教諭、書記、嘱託等があり、瀧澤氏は教諭となっている。

 役 名 教諭 
 担当教科 修身  英語  歴史
 就任年月日 明治30年4月
 退任年月日 明治34年4月 
 現 職 神奈川第二横浜中学校長
 出身県名 長野
 氏 名 瀧澤又市
 住 所 横浜、青木、軽井沢、1948

同校は平成20年に創立130周年を迎えるため現在資料の整理をすすめていたところ偶然にも石川氏は古い同窓会報に関連記事を発見した。それは昭和12年12二月に発刊された如蘭会会報十四号で明治34年卒業の原田二郎氏が瀧澤校長の葬儀の席上読み上げられた「恩師瀧澤先生を偲ぶ」と題した弔辞で同期会で手 向けた供花と共に納められたものであった。この中で一中奉職時代の出来事が触れられている。

その会報によれば昭和12年9月7日には70歳の誕生日を迎え、古希の写真・自作の菊花の絵そして俳句を添えた色紙の絵葉書には御礼の言葉が書き添えられて いた。八田三喜氏に充てた最後の手紙に「三中記念会には是非出席し久振りに皆様に拝芝歓談致し度楽しんでいました処、遽に遠来の珍客来訪し為めに欠席いた し洵に残念致しました。」とあることからこの祝賀の席には残念ながら出席できなかった。そのわずか2ヵ月後2、3日の患いの後、11月3日に逝去された。 同氏は2年生から卒業まで受け持ちとしてお世話になり、また英語の授業では読本を丸暗記させられたことが英語の基礎を作り挙げる結果となったと述べてい る。第二の親と崇める教え子たちも氏同様、恩師の悲報に接し悲嘆にくれた。原田氏の卒業の年の三月三十一日には瀧澤先生も府立三中に奏任待遇で異動してい る(奏任とは戦前の官吏任命形式の一つで奏任官は

3等以下9等までの高等官)。生前同窓生の会合にもしばしば足を運んでおり、教え子の学士院受賞祝賀会で は記念帳を持参し銘々の記念の書画を求めている。

また手紙には「10月10日にはある祝賀会に招かれ、次のような虫の善い歌を作りました。

  「古希となり更に十字を三つ重ね百年までを思ふうれしさ」と綴られている。

原田氏は11月6日横浜久保山斎場に永久のお送りをする。折りしも当日午後7時(伊太利亜時間6日午後11時)に昨年締結された日独防共協定に伊太利亜が参 加した旨も報告し、日本が支那事変も解決し、世界に輝かしい動きを見せることになったことも報告している。更に護国の神として御護り下さるようお祈りし、 自らも御国のため献身のご奉公を申し上げると追悼の句を結んでいる。7月7日には盧溝橋事件が勃発しておりここにも当時の庶民も軍国思想に傾倒し始めたこ とを垣間見ることが出来る。

なお「日比谷高校百年史」下巻には当時の卒業生写真が載っており勝浦校長等に混じり若き日の瀧沢教諭が写っている(明治31、33,34年度、なぜか32年は写っていない)。これらの写真が資料の中では一番古いものだが眼鏡と口髭は晩年と変わらない。

前述の如蘭会会報十四号にある訃報を引用する。

「瀧澤又市先生(旧職員)先生は明治30年4月より34年3月迄在職、修身、英語、歴史科を担任した後府立第三中学校長として子弟の薫陶に努力せられ、最 近は職を辞して閑雲野鶴を友とし居られ、昨年9月7日には34同窓会によって古希賀筵を挙げられしが11月3日急逝せられたり。慎みて弔意を表 す。」(昨年は今年の誤りであろう)

母校を30年以上も前に去った恩師の訃報を掲載していることは想像を絶する情報力であり驚きである。今の世の中では考えにくい。

明治34年7月21日 この日から夏季休暇に入る。26日上野から一番列車で前橋に向かい10時着。鉄道馬車で渋川経由6時に沼田に到着。翌朝8時湯 檜曽に向け出発、午後2時に宿に入り入浴・按摩。翌日の清水越えに備える。いよいよ28日峠を越え、8時頃六日町に到着。鉄道(信越線・北越線)開通前 には街道の宿場には人力車が配備されていたが今は寂れて思いの儘にならない。結局生まれて初めて馬上の人となり十三夜の月を錦城山(金城山)に仰ぎ六日町 に急ぐ。

この後、小千谷、長岡、新潟、直江津、赤倉、上田を訪れ帰京する。
(上越信旅行日記より)

東京府第三中学校時代

平成19年5月、両国高校を訪ね、同窓会淡交会の事務局である染谷・岩崎の両氏を紹介頂く。昼食時間に食い込んでしまったが「両国高校百年誌」から関連記事 のコピーを提供頂いた。この時期は一教諭ということで本人に関する記述も少ない。「百年誌」から当時の学校を取り巻く環境に触れて見たい。

  •  創立は明治34年4月1日であるが明治34年度、生徒は一学年から三学年まで在校した。一中分校の生徒を引き継いだからである。二、三年生219 名、新入生122名のスタートであった。明治33年4月1日、京橋区築地三丁目(現中央区築地四丁目)にあった旧一中の校舎を使用して開校し、瀧澤又 一が分校主任となった。ちなみに10月に起工される校舎設置は同年八月文部大臣樺山資紀により許可されている。明治34年7月に東京府立第三中学校と改称 した。芥川龍之介は7期生で37年四月入学ということになるので一年間は瀧澤教諭のいる三中で過ごしたことになる。
    このような経歴から両国高校の百年誌の第一項目に開校の記述と「分校主任瀧澤又一」の名前が記載されているのも誠に印象的である。
  • 二十世紀の初め、府立三中の周辺には豊かな自然があった。三中の校舎は総武鉄道本所駅(現JR錦糸町駅)に面し、線路向こうには津軽屋敷の森があった。 その屋敷の森の中から大ぎつねが三中の校舎に入ってきて大騒ぎとなり、廣瀬・土井両教諭が廊下できつねを追い回したという。
  • “田吾作”という言葉を先生も使っている。瀧澤又一教諭は福井県大野中学校の校長として赴任したが明治四十二年学友会雑誌の求めに応じて近況を寄せ、 田舎の生活を“田吾作生活”と呼び、閑静で勉強に適するが、一方、文化の程度も低く、ヤボ臭いところで、人民は桃源の夢に耽っていると批判的な文を残し ている。
  • 瀧澤教諭と同時期に三中に異動した初代八田校長の明治35年の入学式で自己の教育方針を次ぎのように述べている。人の品性を養成し学術を薫育する上に ついて吾々には東京府知事からの学則が在て生徒処罰の条に謹慎停学退校の三則がある此は私共はただ規則として文面のみに止めて置く積りであります。何ぜと なれば子供を罰する位手安くて其結果の存外薄いものはないのであるから直接本人を戒めたり又は父兄と相談致す積で要するに罰を用ひずに行を正す方針であ る。「謹慎停学退校」を適用せず、「除名」すると言ったところに青年八田三喜の抱いた理想像をうかがうことができる。ちなみに八田校長の父親は前田藩の下 級武士である。


関東大震災の際、生徒の学籍簿は当直職員の献身的な努力によって持ち出されたが教職員の履歴書は消失した。更に昭和20年の東京下町大空襲によって、保存す る資料の大半を失った。80周年の後淡交会資料室委員会は数十年間にわたる資料を調査し「教職員在職表」の完成をみる。これは「百年誌」にも掲載されてお り瀧澤教諭も38年3月まで歴史・英語を担当されたとして名を連ねておられる。

福井県立大野中学校時代

4月に入り福 井県立大野高等学校前川政人校長に資料提供をお願いしたところ庶務部前川良宣氏から同校八十年史と百年史から瀧澤校長に関する記述箇所合計18ページをお 送り頂いた。同時にお手紙の末尾には「神奈川県立横浜翠嵐高等学校創立百周年のご成功をお祈り申し上げます」と添えられていた。以下に記述箇所をそのまま 引用する。

初代校長瀧澤又市と校風の樹立 (大野高校八十年史より)

明治38年3月3日、長野県人瀧澤又市が大野中学校独立事務取扱を嘱託され、4月1日独立とともに初代の福井県立大野中学校長兼教諭に任ぜられた。東京帝 国大学文科大学を卒業後、新潟県尋常中学校、東京尋常中学校、東京府立第三中学校教諭を経て、はるばる東京より山間僻地への着任であったが、年齢38とい う若さであった。月俸80円で郡長の月俸をはるかにしのぐ破格の給料であった。

彼は前任校を辞して大野中学校に赴任した理由を「校友会雑誌」創刊号の巻頭で次のように要約している。

 

恩顧を受けし先輩の知遇に酬いんが為なり。第二、余の理想に近き教育を施し、余の理想に近き効果を得べき希望あるを信ぜしに由る。第三、この地方の地形民族と歴史的性質とが将来人物を出すに大いに有望なることこれなり。

 

教職員12名の任命もすべて完了し4月8日より授業を開始した。学級数は一学年2組、二~四学年は各1組、計5学級生徒数は188名であった。

5月1日、坂本知事ほか来賓多数の臨席のもと、独立開校の式典が盛大に挙行された。(以来5月1日を創立記念日となし今日に至っている。)

さて瀧澤校長は自ら修身と歴史を教えたが、誠実な人柄と豊かな学識で、職員生徒より慕われ尊敬された。体格は小柄な方だが、全身これ知識という感じでピカ ピカ光る金縁の眼鏡を掛け、まことに身だしなみのよいハイカラな風貌は生徒たちにとってとても印象的であった。後になって大野中学校の創設期の基礎を築い た「初代の名君」とうたわれるようになったが、大野中学校が彼のような人材を迎えることができたのは、何よりも幸運であった。大野郡で育った田舎の素朴な 中学生たちは、彼の教えを砂に水がしみ入るように受け入れたのである。

彼の教育信念は「人間はあるがままに伸びよ」というもので、訓話や授業においてさかんに「平凡主義」を説いた。後になって常盤会(大野地方出身者で東京に在住する人々の会)の会報の中で瀧澤校長は当時のことを次のように述べている。

 

「自分は此亀山に登って、先ず今後の教育指導の大方針を練って見た。此閑寂な田舎町、伝統的旧習の多い事であろう其良習美俗は飽くまで維持し助長すると同 時に、最新の帝都文化の美点長所を移植して見やう。即ち剛健質実、勤倹力行の輪郭に最も進歩的な積極的な文化の程度と施設とを与ふる事にしやう。又狭い所 だけに感化力刺激性は偉大であるから、一挙手一投足も粗末にせず、勉めて人格の涵養、品性の陶冶に主力を注ぐ事に致さう。秀才教育よりも偉大な平凡主義を 採らう等々、種々なる指導精神が浮んで来た。

 

学校及び其所在地の社会教化の中心として全責任を負ふべき学校長としては、為すべき要務は沢山にあるが、先づ其当初に於ての第一義は、優秀な良教員を出来 得るだけ多く集める事はいふまでも無いが、之と同時に、生徒の氏名と其風貌、並びに個性の概要を知ることにある。校の内外を問はず、何時如何なる場合に生 徒と出逢ふも、直ちに其氏名を呼び得る徹底さを必要とする。

偏僻の地として良教師を集めるには多大の苦心を要して、尚ほ果たし能はなかった遺憾はあるが、生徒数は最初200余名であり、其後350十名の定員となった が、兎に角小規模の学校とて全生徒を知り得ることは頗る容易であった。随って理想の一端を実現しる事も出来て、大に本懐を感じた事もあった。大野中学校は 教育味が濃厚で、教育者としての愉快を満喫した事を記憶する。

自分が鳴呼がましくも、偉大な平凡主義を考察し始めてから一年程たった或日、福井新聞の投書欄に次のような学校短評が出た。「福井中学生は悧巧だ、武生中 学生は乱暴だ、大野中学生はウスノロだ」と云うのであった。自分は此ウスノロを頗る興味ある事に感じ、又平凡主義を発表するに絶好の機会と思ひ、右の投書 を切っかけに全校生を集めて我が平凡主義を大に説明し大に強調した次第であった。爾来校外にて講演を頼まるる場合には、ウスノロジー主義と云ふ演題を掲げ て平凡主義や大器晩成論、鈍重成功談などを振り廻す様になり、目から鼻に脱けると云ふ横浜に来てからも、大都市青年の軽佻浮薄、才走った小悧口さ、度胸と 意欲とに缺けた点を警醒するため、折々此ウスノロジー主義を宣伝した事もあった。」

次の年表(明治三十九年~昭和六年)は大野高校「百周年記念誌」と「曲南遺稿」からの引用である。

明治39年秋 県雇用の外国人英語教師コルバインが大野にやって来た。彼は米国人の牧師で、大野へは夫人同伴で、学校近くに家を借りて滞在した。
瀧澤校長は、なかなか進歩的、教育熱心で英語の発音は正確でなければならないといって、当時山間の田舎町ではちょっと考えられなかった外人教師を招聘し外人の発音 を直接生徒の耳に入れられるよう試みたのである。また瀧澤校長は「ユーゴー、アイゴー、亀山ゴー」というような調子でも結構意味は通ずるのだから臆するこ となく大胆に話しかけてほしいと強調した。
同 41年7月4日 前年九月に発足した弓道部は緑したたる亀山のふもとで第一回大会を行った。瀧澤校長は開会の辞としてウイリアム・テルの例をひき、訓述した。
同 41年10月 政府は「戊申詔書」を発布した。それは、日露戦争後の国民の間に芽生えた個人主義。享楽的傾向を思想・風紀の悪化として、その是正を諭し たものである。その結果、日本の国家主義的気運は一段と強くなっていった。大野中学校では「戊申詔書」が発布された日に、奉読式や校長訓話が行われるよう になった。
同 42年9月20日 東宮殿下(後の大正天皇)の北陸行幸に際し、前日朝6時に300名の生徒が雨の中校門を出発し、勝山街道を進み午後4時40分に宿舎の吉田郡藤島村の西超勝寺に到着し、午前7時半出発、同郡追分村に至り、挙手の答礼を受けられた。
同 43年9月30日 武生中学校長として転じる。
大正元年8月1日より明治天皇御諒闇中特に御製に因み「夏草歌会」を組織し作歌に精進し御遺徳を偲び奉る。
神奈川県立第二横浜中学校時代
大正2年3月17日 文部省告示五十六「神奈川県立第二横浜中学校設置許可」
同 3年1月7日 神奈川県立横浜第二中学校長拝命
神奈川県在職中、横浜教育会、神奈川県教育会、同青年団、横浜在郷軍人会、皇道会横浜支部、横浜方面委員、楠公会其他の社会教育機関の役員として微力を致す。
同 3年5月1日 神奈川県告示第六十二号 大正3年5月1日 神奈川県知事石原健三により横浜市青木町に開校する。告示六十三号で定員600名と定められる。
同 3年5月11日 神奈川県立第二横浜中学校開校式挙行
同 8年3月 h第一回卒業式を挙行す。
同 10年9月12日 満州北支に出張を命ぜらる。
同 12年9月1日
  より同年末まで
関東大震災後の二中復興と罹災民救助に尽力す。
同 15年9月21日 横浜貿易新報には創立十周年記念の記事が掲載されている。
  立派な図書館
    これも二中の誇り
      創立十周年記念の建設
二中の創立十周年記念としてプールの外にもう一つ図書館が出来た。これも21日に落成式をやる。近代式木造の2階建。階下40坪、階上32坪、延112坪半で2階は10畳と8畳の日本間で会議にも使用出来る。蔵書は2780部4074冊、工費9450円である。校長瀧澤先生も「まあ中学校としては共に立派なものだろうと思ひます。」と云われるが中学校でなくても実に立派なものである。(写真は図書と校長瀧澤又市氏)
瀧澤校長は生徒の体力向上に力を入れられ、プールを建設したが、これには平沼亮三氏の援助があった。野球は嫌いで取り組ませずサッカーを奨励した。(又一三女のご子息堀田義久氏による)
同 14年9月12日 横浜第二中学校創立十周年記念祝賀式並びに同記念事業図書館及水泳日プール落成式挙行。
同 15年6月30日 横浜市青木青年訓練所指導員拝命
同 9月30 台湾に出張を命ぜらる。
同 12月18日 「我子の入学」を著作出版す
同 3年4月2日 階して高等官三東を以って待遇さる(最後の分のみ記す)
同 5月1日 叙従五位(最後の分のみ記す)
同 11月10日 多年教育に従事し励精其職に尽し功労顕著也依って大礼を行はるるに方り之を表彰す(表彰状並に記念品)
同 4年3月30日 勲五等に叙し瑞宝章を授与す(最後の分のみ記す)
同 5年1月及3月 坐骨神経痛の大患に罹り引籠静養
同 6年5月31日 一級俸下賜
同 6年9月18日 神奈川県立横浜第二中学校依願退職(満63歳と11日)
(大正12年3月30日付神奈川県令第四十四号 神奈川県知事安河内麻吉により校名改称されている)
退職後
昭和10年5月1日 大野中学校創立三十周年記念祭と改築祝賀式に参列。内山家の新館に3日間滞留して旧知、旧友、旧卒業生と快談。校長室に掲げられた30年前の肖像に接し一句
  今は昔若葉と薫る日ありけり
昭和10年5月8日 新潟中学時代の教え子大平氏を大阪住吉区に訪ね4泊の長逗留となる。
「樓高く庭廣く、極めて清楚閑寂の境地、旅の疲れは癒えて全く家庭の人」となった。
同氏が旧友6、7名を同邸に招待し、歓迎の宴を張ってくれた。「今はいづれ56,7の年輩とて京阪神に亘りて最高峰の位置に進出した所謂出世盛りの諸君ばかり、老教育者の愉快洵に名状すべからざる物がある。」
この年末娘の結婚式が奈良の春日大社であるので4月27日出発し29日の挙式に参列、その後大野、敦賀、京都、神戸、大阪、奈良、伊勢を周り5月15日横浜軽井沢の庵主に納まる。これが生涯最後の旅ではなかったか。
注 末娘とは五女仁子で木下家に嫁ぐ
昭和10年9月30日 青年訓練所十周年勤続につき表彰状並びに記念品を授与される。
同 11年5月30日 神奈川県教育会五十周年祝賀式挙行に当り同会功労者として表彰状並びに記念品を授与される
同 11年9月30日 大倉山太尾公園にて野路俳句会の野外句筵に参加。富士見茶屋から東の丘陵さきに近年有名になった湯の町桃の里として知られた綱島の家屋を散見し、西丘陵には大倉邦彦氏の経営に成る精神文化研究所の白亜の殿堂を眺める。
注 太尾公園
大倉山公園の 梅林は梅の名所として有名だが、その歴史は昭和6年に始まっている。園内に設置された梅林の由来を示す案内板によれば、東京急行電鉄が東横線開通直後に用 地を買収して整備し、乗客誘致のために梅林として公開したのが始まりだという。当時は昔からのこの辺りの地名に因んで「太尾公園」と呼ばれ、駅名も「太尾駅」であったそうだが、昭和9年に駅名が「大倉山駅」に改名され、同時に公園の名称も「大倉山公園」に改められたのだそうだ。 梅林の最盛期は昭和12年頃であるらしく、当時は白梅を中心に14種千本を越える規模であったという。第二次大戦中には燃料用のたきぎとして伐採され、ま た食料不足のためにイモ畑に転用されるなどしたらしいが、戦後昭和25年頃から昭和40年頃には、再び盛大に梅祭りが行われるなどして賑わったという。 その後、施設の老朽化などが目立ってきた梅林を横浜市が東京急行電鉄から昭和62年に買収、施設の整備や梅の木の増植などを行って現在に至っている。現在は面積1.1クタールの敷地に紅梅白梅合わせて約20種150本が植えられているということだ。(インターネットより引用)
逝去

都立一中の同窓会誌如蘭会会報十四号(昭和12年12月発行)に明治34年卒業の原田二郎氏が「恩師瀧澤先生を偲ぶ」と題して弔辞を寄稿している。氏は11月6日に三十四如蘭会会員として葬儀に参列し供花を手向け、弔辞をささげている。会報によれば9月七7日には70歳の誕生日を迎え、古希の写真・自作の菊 花の絵そして俳句を添えた色紙の絵葉書には御礼の言葉が書き添えられていた。八田三喜氏に充てた最後の手紙に「三中記念会には是非出席し久振りに皆様に拝 芝歓談致し度楽しんでいました処、遽に遠来の珍客来訪し為めに欠席いたし洵に残念致しました。」とあることからこの祝賀の席には残念ながら出席できなかった。その後わずか2ヵ月後2、3日の患いの後、11月3日に逝去された。同氏は2年生から卒業まで受け持ちとしてお世話になり、また英語の授業では読本を 丸暗記させられたことが英語の基礎を作り挙げる結果となったと述べている。第二の親と崇める教え子たちも氏同様、恩師の悲報に接し悲嘆にくれた。原田氏の 卒業の年の3月31日には瀧澤先生も府立三中に奏任待遇で異動している(奏任とは戦前の官吏任命形式の一つで奏任官は三等以下九等までの高等官)。生前 同窓生の会合にもしばしば足を運んでおり、教え子の学士院受賞祝賀会では記念帳を持参し銘々の記念の書画を求めている。

また手紙には「10月10日にはある祝賀会に招かれ、次のような虫の善い歌を作りました。

  古希となり更に十字を三つ重ね百年までを思ふうれしさ」と綴られている。

原 田氏は11月6日横浜久保山斎場に永久のお送りをする。折りしも当日午後7時(伊太利亜時間6日午後11時)に昨年締結された日独防共協定に伊太利亜が参加した旨も報告し、日本が支那事変も解決し、世界に輝かしい動きを見せることになったとしている。更に護国の神として御護り下さるようお祈りし、自らも御 国のため献身のご奉公を申し上げると追悼の句を結んでいる。ここにも当時の平均的知識人の思想を垣間見ることが出来る。

前述の如蘭会会報十四号にある訃報を引用する。

「瀧 澤又市先生(旧職員)先生は明治30年4月より34年3月迄在職、修身、英語、歴史科を担任し後府立第三中学校長として子弟の薫陶に努力せられ、最近は職を辞して閑雲野鶴を友とし居られ、昨年9月7日には三十四同窓会によって古希賀筵を挙げられしが11月3日急逝せられたり。慎みて弔意を表す。」(昨年は今年の誤りであると思われる)

瀧澤校長逝去後も妻ハマは浅間町に居住したが昭和20年5月29日の大空襲で家屋を消失した。伊勢町の堀田家(三女禮子の嫁ぎ先)も消失したが曲南遺稿とわずか数枚の写真は難を免れた。(堀田義久氏からの書簡による)

今の世の中かかる恩師の訃報を報告できる同窓会組織は如何ほどあるだろうか。翠嵐会もかくありたい。

 (遺稿集「曲南遺稿」より)

 その後一周忌を前に旧友、和歌・俳句の仲間の編集により遺稿集「曲南遺稿」が子息瀧澤遼平氏によって発行の運びとなる。遼平氏は冊子の巻末で次のように述べている。

「父が生前書き残したものは論 文、著述等の物から講演の原稿や、和歌、俳句等の趣味の物を入れますと相当な数になっております。之等を一括し記念写真等を加えて出版することは、故人が 常に口にして居りました念願であり、又私等もその希望を果げさせる事を努力して居りますが、何分にも尚相当の日子を要することでありますので取敢えず一周忌に当りその念願の一部でも達成致し度い意味で、没前最も切望致して居り、雅友諸氏にも口約をして居りました関係上、和歌、俳句、等を主と致しまして上梓 致しました次第で御座います。(中略)尚宝域は三ツ沢墓地の一角に思い出多き神奈川県立第二中学校を望み遥に横浜港の煙波を眺望し得る場所を選び既に納骨相済ませました。併せて御報告申上げます。」ちなみに瀧澤校長のお宅は横浜市青木軽井沢1949とある(昭和5年東京府立第一中学校一覧・旧職員のページ による)。

国会図書館の調査員によれば曲 南は雅号ではないかと。明治35年の4月から10月まで日本新聞及び帝國文学に「曲亭馬琴之新研究」を連載しているが何らかの関連があるのであろうか。後 で判明するのだが曲南は雅号であり、初見は昭和10年9月30日大倉山の野路俳句会である。いつか「曲」の謎解きも試みたいが何分にも月日が経過しており難しいかもしれない。

三ッ沢墓地訪問

平成19年8月13日の盆の入りに墓参が叶う。瀧澤校長の長男遼平氏が遺稿集の巻末で述べている通り、谷越しに翠嵐高校を見渡せる地に葬られていた。墓は埋葬順に又一妻ハマ、遼平の妻 良子、娘美音子、遼平(二中4回生)の遺骨が納まっている。遼平の勤務の関係で三女の禮子が戦後の墓守をした。美音子の死去により墓地の使用名義を堀田義 久氏に変更し現在に至る。尚通常は瀧澤を使用しているが戸籍上は滝澤となっている。又一ハマの夫婦は一男五女を育て、娘の命名は仁義礼知信の逆順で井上信 子、馬場知子、瀧澤遼平、平沼義子、木下仁子で義子を除いて皆長寿を全うされた。美音子から祭祀の主宰を託されていたため、平成18年3月に瀧澤家累代の霊を祀るべく石塔は改築されていた。石塔の施主は禮子である堀田義久となっている。(義久氏からの書簡による)

師が埋葬された20年後には三ツ沢の丘に慰霊塔が建てられ、現在翠嵐は丁度、塔とランドマークタワーの真ん中に見える。当日は墓地の管理事務所の定休日に当り、困っていたところご親切に も石黒稔氏が墓地で一番古い三橋茶屋の女将を紹介して頂き所在を突き止めることができた。三橋茶屋の親戚には高校五回生三橋照夫氏がいる。墓地には改築前 の名刺入れや句碑が当時の面影を残している。句碑の主は倉島久米弥とあるが俳句仲間かお弟子さんであろうか。師はじっとこの地で七十年に亘る変遷をじっと みてこられた。

   笹鳴や雀も参る庭木立     曲南

上田市長瀬探索

生誕の地である旧長瀬村は昭和30年後半に廃線になった上田丸子鉄道の中では大いに栄えた駅であった。長瀬が唯一の単線交換駅であったためである。いつの日かこの地を訪ねてみたいものである。

 

参考資料 福井県立武生高等学校庶務部長 堀直樹氏からの書簡(2007・4・3)
  福井県立大野高等学校庶務部  前田良宣氏提供の資料
大野高校八十年史(昭和61年9月25日発行)の写し
大野高校百周年記念誌(平成十七年十月二十八日発行)の写し
  東京都立日比谷高等学校 百周年記念資料館石川英雄氏提供の資料
・昭和五年東京府立第一中学校一覧(旧職員のページ)の写し
・東京府立第一中学校如蘭会会報十四号(昭和十二年十二月発行)
・「恩師瀧澤先生を偲ぶ」 明治三十四年卒業 原田二郎氏
・訃報 瀧澤又一先生(旧職員)
  東京都立両国高等学校同窓会淡交会事務局染谷・岩崎氏提供の資料
・両国高校百年誌(二〇〇二年三月三十一日発行)の写し
・第一章江戸っ子中学校(一九〇一~一九一九)
・府立(都立)三中教職員在職一覧表
  曲南遺稿 (昭和十三年十一月三日発行) 発行者 瀧澤遼平
  神奈川県教育史 資料編 第二巻 昭和四十七年三月三十一日発行
  横浜貿易新報 第九千百九十三号  大正十五年九月二十一日(火曜日)
  角川日本地名辞典 十群馬県 十八福井県 二十 長野県
  平成二十年十一月九日付堀田義久氏書簡

              跋

 

瀧澤校長が帝大卒業より歩んだ足跡を訪ね、いつの間にか現代に失われつつある学問の真髄というか、生きることの本質のような物に一瞬触れられたのかもしれません。府立三中の分校主任、大野中学校独立事務委嘱と初代校長そして二中初代校長と3度も新中学校の誕生に携わったのは偶然ではないでしょう。常に前を向 いてコツコツとではあるが信念を持って教育に打ち込む姿勢が強く関係していたように思われます。情報を頂いたいずれの学校も突然の問い合わせにも拘わら ず、懇切丁寧に対応して下さいました。各校の関係者の方々には心から感謝申し上げます。

更に教訓として記録に留めたいことがあります。それはお世話になった学校で数十年、百年と母校の同窓会組織を維持、拡充されておられる卒業生の姿でありま す。又一方、奨学金制度等を充実し、後に続く現役諸君が悔いの無い学生生活ができるよう制度面の充実を図る先輩の姿がありました。一部の学校では天災や戦争に遭ったにも拘わらずその惨禍にめげることなく、その後も地道に資料の収集に尽力され、記念誌の発行に漕ぎ着けておられます。いずれの学校も誇りを失うことなく、先輩達が築いた礎の上に、日々研鑽を積み重ね、さらなる一歩を踏み出している姿を見ますとやはり伝統校の重みというか厚みを実感する次第であります。

平成20年末に瀧澤校長のお孫さんにあたる堀田義久氏より校長の子女に関するお手紙も頂き原稿の数箇所を加筆訂正させて頂いた。時期を同じくして曲南の作である短歌の掛け軸も見つかった。古希の祝いにと表具された物で中学2回生岡部健氏のお孫さんにあたる肥瓜剛氏が寄贈されている。

瀧澤校長は今でも三ツ沢の丘から諸校の我々を見守り、日々激励しておられるのです。

著 書

をしえのしるべ    平安社     明治36年8月

中等西洋歴史 訂二版 啓成社     明治38年1月

中等西洋歴史 訂八版 啓成社     大正4年

中等東洋歴史 訂二版 啓成社     明治39年1月

我子の入学      文化生活研究会 昭和元年   (母子読本第五)       

学校と家庭      文化生活研究会 昭和2年   (母子読本第八)

をしえのしるべと中東西洋歴史訂八版以外は国立国会図書館で閲覧可能です。

          

平成20年12月 完

 

 

注)原文は縦書きのため、HPでは漢数字は名詞等を除いてアラビア数字に編集しました。原文はこちらを参照してください。